ガス・ ヴァン・サントの「MILK」を見た。ショーン・ペーンが凄まじかったことは言うまでも無いが、いろいろと考えさせてくれる映画だった。
ちなみに俺はゲイと遭遇したことがない。
よく「あの芸能人はゲイらしい」とか、ほとんど噂話のレベルで女たちが話すのを聞いたことがあるけど、実際に話したことも無ければ感じたこともない。
なので、都市伝説だとすら思ってるフシがある。
それだけ、彼らを意識せず暮らしているってことだ。
だから実際に会って話すときが来た場合、どんなことを感じて、どんな態度をとるのかは断定できない。
歴史上初めて「ゲイ」ということをカミングアウトして公職についた、ハーヴィー・ミルク。
彼が50歳を目前に暗殺された年の1978年は、俺が生まれた年でもある。
たった30年前まで、
「ゲイを働かせるな」
「神の作った秩序を乱すな」
「家族という概念の危機だ」
なんてことを、政治家が平然と言ってのける時代だったのだ。
今でも彼らが暮らしにくい世界なのには間違いないけど、テレビで普通にニューハーフが活躍する時代だよ。30年の間にこうも変わるものなのかな。
肌の色の差別から始まり、トランスジェンダーへの差別、民族の差別。
主義思想の違う人を区別し、同じ価値観を持つ人間と結束する。
これはもう、人間が「他人に同調してもらいたい生き物」だと思うしかない。
自分と同じ考えを持つ人間同士で団結して、その団結力を持って反対勢力を排他する。簡単に言えば差別ってこういうことだし、正義だとか悪だとかを持ち出す以前の問題なのだ。
やはり人は「多数派」であることに安堵する。
これを読んでる君も貴方も皆そうだろ?
劇中、ミルクの周囲にはほとんどゲイしかいない。
社会の中では息を潜めざるを得ないゲイたちでも、彼らのコミュニティの中では、ゲイこそが圧倒的な多数派で、多くの人と考えを共有できる。
おそらく、ノーマルな人間よりももっと強い絆で結びつくだろう。いや、どうかな。やっぱり悲観が前提の結束なのかも。体験したことないのでとやかく言えん。
ちょっとここで話を置き換えて、
俺は在日韓国人という、日本に住む人間という括りでみたらマイノリティだ。
常日頃、「あー俺は少数派だ」とか考えてるはずも無いんだけど、やっぱりふとしたときに、自分の根無しっぷりを感じて傷口が沁みるときがある。
やっぱり俺が日本で何不自由なく暮らしているのは、俺の親や祖父たちが苦労して得た人権のおかげだと思うし、理解を示した日本人のおかげだ。
ハーヴィーが勝ち取った尊厳でクローゼットから飛び出したゲイたちと一緒。
朝鮮学校に通った俺は、大学を卒業するまで日本の友達は皆無に等しかった。
だけど今は多くの友人がいる。
日本の人と話して遊んでるときは、俺の保有している「国籍」がマイノリティなだけで、俺自身は区別されていない。相手がどう思ってるかは知らないけど、少なくとも俺は相手と価値観を共有しているつもりでいる。
でも同じ立場の、つまり在日の仲間たちと一緒になった瞬間、俺はとたんにマイノリティになるのだ。もちろんそれの方が居心地が良いから。
括られて、弾かれることで生まれる妙な安堵。
自分の宿命から逃れられないゲイたちとは違って、俺たちは在日であることを捨てるなんて簡単だ。というか捨てる必要もない。日本で生まれて育ってるので、無理に自分のルーツに固執しなければ表面上は簡単に日本人になれる。
だけど、それをしないのはなんでだろう。
それはやっぱりね、
同じ立場で生きてきた親や友達たちと、気持ちを共有したいからに他ならない。
同じ境遇の人間と作ってきた価値観てのは、簡単には捨てられないし、居心地が良い。
マイノリティというマジョリティは、かけがえの無いものなのだ。
実はこの記事を書くのに2時間ぐらいかかってる。
余計なことまで考えてたら、随分時間が経ってしまった。
でも、こういうことを考えるのは悪くない。日曜日の深夜の使い方にしては上出来だ。









